2019/08/17

夏休み最後の土曜修練?

お久しぶりでございます。3日以来2週間ぶりの修練レポートになります(^-^;
今日は大人の夏休みとしても子供の夏休みとしても休みの最後の土曜日だったのではないでしょうか。
多くの拳士が参座していました。やっぱりたくさんいますと活気というか賑やかになります!
修練は副道院長が休みのため、道院長を中心に進められました。

基本練習は昇段、昇級試験を控える拳士が数人いることから密度濃く行いました。
20190817_192942.jpg

20190817_193902.jpg

水飲み休憩を何度か取りながら、それぞれの技術練習を行い、成果発表で今日の修練は終了しました。
20190817_202137.jpg

20190817_202242.jpg

20190817_201956.jpg

20190817_2034.mp4

20190817_202728.jpg

成年拳士の練習では、試験に向けた運用法も行いました。
20190817_211647.jpg

さて、今日の法話ですが「正信について」解説がありました。
個人的には読本を読んでも非常にわかりにくい内容の項目と感じています。
まず宗教は、失敗や不幸が悪魔や悪霊によるものだとして、祈祷などでこの難を逃れようとしたものであり、また一方で祈れば幸福になれるというような人間の弱い部分を補うことで生活や文化に入り込んで現世においても成立しています。

そこで、正しい信仰とは、①「宗教」というものに対する自覚、②他者の犠牲による自己の幸福を求める教義を否定。これにより、人間としての尊厳を尊重する生き方を確立するもの、という理解になるのでしょうか。

少林寺拳法は、金剛禅による拳禅一如の修行により、釈尊の教えに基づき「生きている人間を教化」として、強い生き方や生きる知恵を学ぶことで自分を発見し、さらに自分のためだけではなく他人の役に立つ人間となって平和で豊かな理想社会の実現を目指しているということだと思います。
仏教も宗教の一つではありますが、その本質を理解することが重要なのだということを述べているのだと思います。
ただそうはいっても、私たちの家ではそれぞれの家でご先祖様を祀ってお参り(そこに何かを求めるものではない「先祖を敬うお参り」)をしていると思います。そうしたこれまでの生活や家の伝統としてきた宗教をいきなり否定しても受け入れられるものではないのでしょうから、それはそれとする一方で、自分自身の宗教観による「正信」を考え、日本人的な対応をすることも「心のよりどころ」となるのであれば「あり」のような気がします。

この項は、宗教、哲学、道徳、迷信などが一緒に述べられていてそれぞれの意味を理解しながら読み進むことが求められるのだと思いますが、やっぱりしっくりとした理解には至りません。すみません。